長谷川の教育論[11]

● 「子どもの人権」という言葉が流布され始めたのはいつからだろう。「いじめ」「自殺」「体罰」…様々な不幸な事件が起こるたびに、子どもの人権という言葉が使われる。もともと人権思想とはキリスト教社会で生まれた。我々人間は皆、神が創られた…そこから、神が全ての人に等しく与えたもうた権利、いわゆる人権が生まれた。人は皆、神の下に平等であり、「一人一票」の民主主義もそこから派生した。
 こうして考えてみると、「子どもの人権」という言葉が使い方を間違えていることが分かる。人権とは老若男女、全ての人に等しく与えられた権利のことである。「子どもの…」と、ある層に与えられるものは人権ではなく特権と呼ばなければならない。
 なぜ、こんな話を始めたかと言えば、「子どもの自主性」「ゆとり教育」「学校での悪平等」…子どもを取り巻く環境の根底に大人たちの遠慮、もっと言えば腫れ物に触るような姿勢が感じられるからだ。どうも我々大人は、子どもの特権を無原則に認めすぎているのではないかという疑問を拭い去れない。
 例えば「お小遣い」。日本の子どもは「当然の権利」と考えている。欧米では「働かざる者、食うべからず」という神の教え?が徹底しているので、子ども達は家事を手伝う対価(報酬)として「お小遣い」をもらうことが通例である。無条件に「お金」をもらえるのは、ごく限られた階層の子ども達だけである。
 教育においては二つの視点が必要だ。一つは「教育を受ける子どもの視点」であり、もう一つが「教育を施す大人の視点」だ。そのバランスの上に教育は成立する。今の日本は前者に力点が置かれ、子どもに迎合する方向へ進みすぎていると思えてならない。日本中の学校に、生徒から「あだ名」で呼ばれて悦に入っている教師が多いという事実が物語っている。
 教育は「未来の社会を作る行為」だ。より良き未来のためには、より良き人物の存在が不可欠なのは言うまでもない。そうした人物に育つために、子どもにとっては辛くつまらないことでも続ける、続けさせる根気と強さが必要だ。子どもは「腫れ物」ではない。磨けば光る玉だ。しかし、磨く道具が「やわ」では宝も光ることはない。私は教育者として、綿の心ではなく絹の心で子ども達に接する覚悟をしている。

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